組織のパフォーマンスを上げるために必要なもの
50歳近い昭和のおじさんからすると、最近の仕事をする環境は本当に優しくなったなという感じがする。ワークライフバランスとか、コンプライアンス(まあこれは昔から重要だが)、〇〇ハラスメントなど、昔はなんとなく許されていたことが、だんだん許されなくなってきたりする。正直面倒くさいなと思うことも多いが、女性の社会進出を促進するとか、少子高齢化の改善のために男性の育児参加を促進するとか、そもそも健康的な人生を送るためとか、いろいろな理由から致し方のない事なのかもしれないとは思し、ある程度は必要だと本当に思っている。
一方私は、ここで議論しているように、自分の部下にはData is God!だとか、ロジカルに考えろとか、なんとなくスマートに仕事をすることを推奨しているため、普段からそのような事ばかり重視している人間のように思われている気もする。ただ、実はどっぷり昭和なので、必ずしもそれだけではいけないと思っている。
ということで、今回は少しいつもと視点を変えて2つのキーワードについて考えてみたい。「愛」と「気合」である。
「ストーリーとしての競争戦略」という本が爆発的に売れてすっかり人気(?)経営学者になられた楠木健という先生が一橋大学にいるのだが、この先生が昔どこかの雑誌か何かのエッセーで書いていた話が今考えると大変面白い内容であった(ネットでいろいろ検索したのですが、上手く見つけられなかったので、見つけられた人はご連絡ください)。
その内容は組織と愛の関係性みたいな内容であった。記憶の中から内容を要約するとこんな感じである。
「人が何人か集まってひとつの組織を作る。マネージャーは組織を円滑にマネジメントするために、役割分担を決めたり、目標を決めたり、ルールを決めたり、論理的にいろいろ考えて、実践をしていく。何か上手くいかなければ、その改善をして、何とか組織が上手く回るように必死で考える。そのうちにだんだん組織が円滑に回るようになって、パフォーマンスが上がってくる。上手くいきだすようになった、真面目なマネージャーはなぜ自分の組織が上手くいっているのかもう一度論理的に理由を考えてみる。しかし上手くいきだしたタイミングと、自分がうった打ち手のタイミングは一致せず、なぜ上手くいきだしたのかが説明できない。
こんなことは、結構いろんな組織でよくあることなのではないか?組織というのは、論理的に説明できることだけで上手くいく行かないが決まるわけではない。論理を越えた何かも合わせて必要なことも多い。私はそれを「愛」と呼ぶことにする。」
論理的な仕組みだけでは人の集まりは円滑に動かない
たぶん、このエッセイ的なものを読んだのは20代の後半であったような気がする(もう20年以上前か。。。)。当時の私は、仕事なんてロジックが正しければ上手くと今よりも遥かに強く思っていたような気がする。ただ、確か通勤の電車の中で読んだこの記事がいまだに私の記憶にのこっているということは、何か内容に共感するところがあったのだろうという気がする。
そして20年くらいたって、これまで多くの上司や同僚、部下と一緒に仕事をしてきて、いろいろな成功例、失敗例を見てきたが、今の私にはこの内容がとても心に響くのである。
例えば、人材育成のパートでも話したが、ロジカルに短期的なパフォーマンスの最大化を図ろうと思えば人材育成などとても出来るとは思えない。人を育てようと思えば、その人の可能性を信じ、多少チームのパフォーマンスが悪くなっても、自分で考えて正解を見つけるまで辛抱強く見守らなければならない。それはロジックでは説明しにくい話である。
もっと身近な話でいえば、隣の人が何か業務で困っている。これを解決したところで、自分の業務のパフォーマンスと評価が上がることはない。では貴方は手伝わないであろうか?ロジカルに考えるだけの人であれば本当に手伝わないであろう。何の得もない。でも、私であれば、私の助けが役立つのであれば、ある程度は手伝ってあげても良いと思う。
組織が円滑に回るというのは、実はそういうロジックを超えた小さな何モノかの積み重ねであったりする気がする。チームの構成員全員が隣の人に興味を持たず、自分のパフォーマンスを最大化することだけ考えて組織は本当に上手くいくのだろうか?
私の経験では、そのようなチームは短期的なパフォーマンスをあげられたとしても、中長期的にパフォーマンスを維持することが難しい。
もちろん、組織がうまくいくかどうかのメインの要素は間違いなくロジックである。それを否定してしまっては、私がここで書いていることなどほぼすべてが無価値になってしまう。貴方の組織には、「愛」はあるだろうか?別にそれを「愛」と呼ぶのが嫌であれば別の言葉でもよい。「志」「思い」「優しさ」「気遣い」・・・。表現の仕方はいろいろあるだろう。でも、どんな表現でもいいが、ひとつの組織が上手く回るためには、論理的に説明のつかない何かは必要なはずである。
この話は是非、真面目に勉強して自分が賢いと思っている人には、一度考えてもらいたい。
サッカー日本代表選手がよく言う「戦う気持ち」とは?
ロジックではない似たような話をもう一つしたい。よくサッカーの日本代表の選手がワールドカップなどの国際大会の際に話しているのを聞いていると、「戦う気持ちが大事」みたいな言葉をよく聞く気がする。これを、昭和のスポ根的な言葉で分かりやすく言うと「気合と根性」ということになる。私のようなおじさんたちの「最近の若者は、、、」話で良く嘆かれていることの大半は、この「気合と根性」が足りないという話に帰結している気がする。
では、この「気合と根性」というのは一体何なのであろうか?おじさんたちがいうように、本当に必要なのであろうか?それとも、昭和の遺物なのであろうか?それであれはなぜ、ワールドカップで戦う若いサッカーの日本代表選手たちは「戦う気持ちが大事」などというような発言を公の場でするのであろうか?
まず、日本代表の選手たちの「戦う気持ちが大事」発言を冷静に考えてみよう。大前提として確実なのは、決して彼らは「戦う気持ちがすべての要素の中で一番大事」とは決して言っていないだろうということである。もし、この気持ちが一番大事なのであれば、サッカーを一度もしたことのない人でも、死ぬほど日本代表にワールドカップで勝って欲しいと強く思っていて、その気持ちは日本で一番だという人が現れたら、その人は日本代表のメンバーとしてワールドカップの試合に望むべきだということになってしまう。でも、この論理には誰がどう考えても同意する人はいないであろう。
では、この発言をもう少し詳細に背景も含めて表現するとどうなるであろうか?たぶん、こんな感じである。
「これまで日本代表のメンバーになるために、各選手は厳しい鍛錬をつみ、技術を磨いてきた。今日ピッチに立つメンバーは日本で最も優れた技術とフィジカルを持った選手の集まりである。試合に備えて、自分たちの戦術も洗練させてきたし、相手チームの分析も十分に行ってきた。最高のメンバーが最高の監督、コーチとともに最高の準備をしてきた。全員が戦う気持ちを持って、これまで準備してきたことをピッチ上で表現することが大事である。」
真面目にサッカーをしたことなど1秒もないが、おそらくこんな感じの話が背景にあると思う。ここで重要なのは、戦う気持ちが大事というのは、あくまでそれまでの十分な準備と、そもそも各個人に長い努力の末に培われたスキルや体力があるという大前提で、それを余すことなく出し切るためには戦う気持ちが大事であるということだと思う。つまり、気合と根性が最後のエッセンスで必要だと表現しているだけであって、決してそれが一番重要であると言っているわけではないのである。
「気合と根性」をなんでも解決できる魔法のツールとして使わない
しかし、「気合と根性」が好きな人というのは、たまに「気合と根性」だけで何とかなると思っている頭が筋肉みたいな人がいることも否定しないが、多くの場合、気合と根性を最後のエッセンスとしてのせる土台のスキルとか体力というものの説明をするのが非常に下手なことが多い。普通に考えて、長い時間をかけて、組織内で相対的に高いパフォーマンスを出し、人を束ねる立場にある人物が、何のスキルもなく気合と根性だけでその地位を得ているということは殆どない。必ずベースとなるスキルのようなものが備わっているはずなのにである。
もう一つ欠点としてよく見るのは、「気合と根性」が好きな人は、パフォーマンスが悪くなると、その原因分析をきちんとする前に「気合と根性不足」を原因として指導してしまう傾向が強いということである。
では、なぜそのようなことが起こるのであろうか?もちろん、「気合と根性」好きな人の資質による部分も大きいが、一番大きな原因は、スキルとか体力は短期間で飛躍的に成長することは難しいが、気合と根性は気持ちの持ちようみたいな部分があるので、短期で改善できるように感じてしまうからである。
私が仕事をしていて「気合」という言葉をよく使うのは事業計画を作る時である。おそらく殆どの会社において、事業計画を作る時に遭遇するシチュエーションは、ロジックを積み上げた時に見えているKPIの目標では足りないとなって、もう少し上方修正できないかというものである。こういう時の対処法は、追加の改善余地を探し、そのパラメータを修正して目標値に近づけるということになるが、あるポイントからそれ以上数字をいじると単純な数字遊びになり実現性が下がっていくということになる。
このため、私の場合は、論理的に進められるところまではロジックで積み上げていくが、それ以上の改善を求められた時には、細かく数字をいじることをやめて、一律で数%上積むということをする。私はこれを「気合予算」と呼ぶ。正直、この「気合予算」を乗せざるを得ないケースはそれなりの頻度で存在する。しかしそれは、最後の数%の話だと思っている。それまで論理的に洗練されたオペレーションを作ってきた部署であれば、普通に考えて論理的な積み上げの限界値を一気に20-30%改善するなどということは考えずらい。このため、そのレベルで上積みされた予算というのは、私からすれば「気合が乗った予算」ではなく、「実現不可能な予算」になってしまっているということになる。
と考えれば、よく予算未達の原因が最後の頑張りが足りなかったとか言っているときに、理由付けとなるのは予算の未達が数%の範囲内のケースででなければならない。たまに予算未達20%で数字への執着が低いなどと説明する人がいるが、これは自分の事業の未達原因を分析することを拒絶して、精神論に原因を求めてしまっている状況である。
ビジネスでの精神論はロジックに上積みする最後のエッセンス
私は、PDCAを目標達成のためにもう一段速く回せるように工夫してみるとか、データ分析をもう一段深く行って今よりも改善ペースを上げようとか、ハイレベルに洗練されたPDCAのオペレーションをさらに改善させようとおもうと、気持ちのテンションを今よりも高くして取り組みを促進するというような精神論のようは話は必要だと思っている。
特に、新規事業などでなかなか正解が見つからずに暗中模索している時などは、必ず正解にたどり着くはずと信じて、ロジックを超えて歯を食いしばって前に進むことが必要な場面は必ずある。
しかし、マネジメントをする立場の人間が必ず正しく見極めなければいけないのは、現在問題になっていることの原因のすべてが「気合」不足だからなのかという点である。間違ってもロジックに問題があるのに、そのソリューションを「気合」に求めてはいけないのである。
「愛」と「気合」という全く似つかわしくないテーマで話したが、この2つには重要な共通点があることはご理解いただけたであろうか?この二つの共通点は、ロジックを積み上げた後の、最後の成功のエッセンスだということである。「愛」と「気合」はすべてを解決する最強のツールではない。くれぐれも、定義が曖昧なことを良いことに便利に使いすぎてはいけないのである。
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