信頼とマネジメント

職場の信頼感は働く場として不可欠な条件

このBlogのように、マーケティングのデータの話、ロジックの話を延々と述べているので、こういうことを言うと驚かれるかもしれないが、私が働く場に最も重要だと思っていることは「信頼感」である。以前、性善説と性悪説の話をしたが、私は自分も性善説でマネジメントされたいし、自分の組織もそのようにマネジメントしたいので、その基盤となる「信頼感」のない組織では幾らそれ以外の条件が良かったとしても、仕事をすることはできない。

では、ビジネスにおいて、信頼感を醸成するためには何をしなければいけないのであろうか?ひたすらいい人を演じれば良いのであろうか?私は決してそうではないと思う。客観的な評価は自分では分からないが、私自身はごく一部の人を除いで、一緒に仕事をしてきた人たちとは良い信頼関係を持って仕事をしてきたつもりでいる。非常にマイペースな人間なので、周りからの評価に鈍感すぎて、信頼されていないことを感じていないだけなのかもしれないが。私自身が周りからある程度信頼を得られているとして、自分でいう話でもない気がするが、私自身は全くいわゆる「いい人」ではないと思う。自分の意見は結構頑固に曲げないし、時間にはルーズだし、小まめな気遣いを出来るような人間でもない。物凄く短気だし、言いたいことは結構ストレートに言わないと気が済まないタイプである。と悪いところを公表してもうれしくもなんともないが、まあ、普通にそれなりに困った感じの人間である。でも、それなりに仕事場では信頼感を持たれて四半世紀働けてきたと思っている。

職場で信頼を得るための3つのポイント

では、信頼感とはどのように築かれるのであろうか?私は単純に3つのポイントが守られるかどうかではないかと思う。

①任された仕事でパフォーマンスを出す、②上手くいかなかったときに責任を明確に示す、③嘘をつかない・ルールを守る。物凄く単純であるが、じつはこの3点をやり通すことができれば、職場での信頼関係というのは基本的には築かれるのだと思っている。

①任された仕事でパフォーマンスを出す

職場での評価の大原則は、業務におけるパフォーマンスである。決してパーソナリティが優先されることはない。よくミドルマネジメントの人間と話していてメンバーの評価で「〇〇さんはすごくいい人」という評価が結構最初の方で出てきたら、私はパフォーマンスやスキルで褒められる部分が少ないのねと思ってしまう。職場での人物評価で最優先されるべきは間違いなく業務におけるパフォーマンスとそれを実現するためのスキルである。

また、パフォーマンスを上げる利点はそれ以外にも存在する。職場においてパフォーマンスを上げている人材は多くの場合細かく管理・干渉されずに仕事をすることが出来る場合が多い。このような状態になると、周囲からの信頼感を感じることでできるようになりやすい。逆にパフォーマンスをあげていない人材については、上司は放置しておくわけにはいかないので、事細かに管理・監督しなければいけなくなる。そのような状態になると、双方に取ってお互いの信頼感を感じることが難しくなる。

このように考えれば、職場における信頼感の大前提はパフォーマンスを上げることであると分かる。もちろんそれを実現するためには、当人はパフォーマンスを上げられるように日々の業務にまい進し、業務のクオリティを上げるためのスキルの習得に励まなければいけない。一方、上司・先輩の立場にある人間は、部下・後輩の信頼感を上げるために、正しく管理・監督し、人材育成の努力を注がなければならない。

②上手くいかなかったときに明確に責任を示す

職場での基本はパフォーマンスをあげることであるのは大前提であるが、すべてが上手くいくわけではない。当然失敗すること、想定外にパフォーマンスが低くなってしまうこともある。寧ろ、いつも想定通り上手くいくという人は、飛びぬけて優秀な人でない限り、上手くいきそうな仕事しか任されないか、請け負わないかのどちらかなのではないかと疑ってしまう。私は、ビジネスというのはチャレンジしないと大きな成果は得られないと思っているので、上手くいきそうなことだけ選んでいる人はそもそも成長しないと思っている。

という前提で考えると、パフォーマンスを上げられる人というのは、失敗とは言わないまでも、上手くいかないということは寧ろワンセットで発生するものだと思っている。もちろんデジタルマーケティングの基本のひとつに「小さな失敗を早く、意図を持って」と言っているので、失敗の大きさをコントロールして、「大失敗」ではなく「想定通り上手くいかない」くらいに収めることは当然必要であるが。

ということで、ある程度思った通りに行かないことは多々ある前提で、日々のパフォーマンスで築き上げた信頼感を維持するために重要なのは、その状況におけるスタンスである。結論から言えば「逃げずに責任を明確に示す」ことが求められると思う。昔ながらのお堅い日本企業で人事評価が減点法みたいな時代遅れな組織がどのくらいあるのか分からないが、現代の全うな会社であれば、正しい小さな失敗は評価されるべきことで、非難されることであってはならないと思うので、上手くいかなかったときは明確に自分の責任で上手くいかなかったことを表明してしまうことが非常に重要だと思っている。

もちろん、そのためには、単に謝るだけでなく、なぜうまくいかなかったのかは客観的に分析し、次回より改善したパフォーマンスをすることは前提であるが。

なぜ、このようなある種当然の話をするのかといえば、私が見てきた中で、それなりの割合の人間が、責任を明確にせず、環境や部下のパフォーマンスに失敗の原因を求めようとする人がいるからである。もちろん、それが原因であることもあるのかもしれないが、そもそもその業務を請け負った時点で、責任者は環境や部下のパフォーマンスも考慮に入れてマネジメントしなければいけない。それなのに、自分の想定不足を棚に上げて、自分で責任を取ろうとしない人が結構いる。私はこういうたぐいの人物は基本的には信頼できないと思っている。

いろいろな人を見ていて、この種の失敗をしてしまう人で多いと感じてしまうのは、怒られることに対して、拒否反応なのか、恐怖感が強い人である気がする。それが、子供のころの教育環境なのか、社会人としての原体験(おもに新卒1社目の会社の経験)によるのかはよくわからないが。

また、このような態度を組織内の人間に生まないように心理的な安心感を醸成するためには、上司・先輩の側にも注意すべき点がある。私の考える悪いパターンは2つある。一つ目の悪いパターンは必要以上に詰め寄るタイプのコミュニケーションである。最近はパワハラとか言われてしまうことも多いので大分減ってきてはいるのかもしれないが、詰め寄ることによって危機感をあおるタイプのマネジメントを多用しすぎると、マネジメントされる側はとにかくその状況を逃れようと「言い訳」をするようになる。言い訳というのは、基本的には自分が原因ではなく、周りに原因を求めるという行為なので、やり過ぎると結局組織全体に責任逃れをする体質を作ってしまう危険性があることを認識すべきである。私はなるべく相手が「申し訳ありません」等の謝罪の言葉を2回程度述べたらそれ以上は深く追求せずに、何が問題であったのかを一緒に考えるモードに切り替えるように心がけている。謝罪の言葉の数で反省の度合いを測ろうとしているのか、優位に立った優越感に浸りたいのかは不明だが、何度も謝罪させるタイプのコミュニケーションは、怒っている側の快感のためか、心理的安心感を破壊するための行為以外の何物でもないと思う。

二つ目の悪いパターンは、相手が何らかの失敗をしたときに、その時は何も不満の表明もしない代わりに、陰で「アイツは駄目だ」みたいな発言を親しい人間にだけ表明するようなタイプのコミュニケーションである。大体このタイプのマネジメントをする人間は部下や後輩に小まめに改善指導をせずに、いきなり最後通牒のようなコミュニケーションをする。もちろん、それは評価された本人にとってもたまったものではないが、当然そういうコミュニケーションの仕方は周りも見ているので、組織全体に自己の責任を明確化する安心感が減退していくことになる。

職場の信頼感というのは、信頼感を失った人間の側ばかりに原因を求めがちだが、私自身は組織をマネジメントする側の手法の方に問題があることの方が多い気がしている。少なくても、私がマネジメントしてきた組織で、この10年間くらいは無意味な言い訳をするような部下に直面した記憶はあまりない。

③嘘をつかない、ルールを守る

ここまでくると余りに当然の話な気がするが、現実問題としては残念ながら、この人間として超基本的な事なのではないかと思うようなことが出来ずに信頼感を失っていく人間が、結構な割合で存在する。

おそらく、前述した怒られることへの拒否反応か恐怖感が極度に強い人に多い気がするが、言い訳が度を越しすぎて「嘘」になってしまう人が、たくさんとは言わないが、ある一定数存在するということは分かっている。

この手の人物で最もたちが悪いのは、嘘をつき続けているうちに、実は一番その嘘に洗脳されて、自分では本当のことを言っていると勘違いしてしまっている節がある人である。

一番重要なことは、②で述べたように、人をこのような状況に追い込まないように自分の組織をマネジメントする方法を工夫すべきであるが、それでも、嘘をついたり、基本的なルールを守らない人間は厳正に処分することで、全うな人間で組織が構成されるように明確化しなければいけない。

私は大学時代に理論経済学を専攻していたのだが、私が全く馴染めなかった大前提が「合理的経済人」という理論経済学の仮説である。簡単に言うと、人間は自己の利益を最大化するために合理的な判断をするものという前提だ。この前提があるから、理論経済学というのは数式のモデルで議論することが可能である。最近はやりの行動経済学と、この合理的経済人の仮説は正しくないよねという前提に立っている(このため私は親近感がある)。実はこれが、私が大学院に行くときに経済学から商学に変わった最大の理由なのだが、人が集まる組織というのは、このように合理的に正しいとは思えない判断をして、信頼感を損ねてしまう人が多いのが凄く残念な気がしている。でも、それは、そうすることが合理的に思えてしまう環境を作ってしまった側にもそれなりに原因があるような気がする。まあ、それなりにいい歳になってしまっている人で、染み付いてしまっている人は難しいかもしれないが、可能な限り信頼感で人間関係が構築されている組織で仕事をしたいものである。