分子人類学の発展からマーケティングを考える

ゲノム解析技術の進歩が人類の歴史を書き換える

相変わらず怠惰に本を読まずにYoutubeで流れてくる動画を見ながら日々過ごしているのであるが、たまに何故自分にターゲティングされたのか理解不能な動画が推薦されてくる。放っておくと自分の興味のあるものがどんどん狭くなっていくので、あえてそのようなよく知らないものは見るようにしている。

今回のお話は究極に自分の普段の生活からは縁遠い話である分子人類学のお話である。切っ掛けは国立科学博物館の館長でもいらっしゃる分子人類学者の篠田謙一先生のこちらのインタビューを見たことが切っ掛けである。なんとなく先生のお話を聞き始めたら、何やら非常に面白い話をされていた。そもそも、人類学というのは、主に骨を発掘して、その骨の形を比較しながら、このエリアの古代人類とこのエリアの古代人類は骨の形が似ているからおそらく系統が同じであろうというような研究がなされていたそうである。ところが、ノーベル生理学・医学賞を2022年に受賞したスバンテ・ペーボ博士というかたが、古代人骨のゲノム解析(遺伝子情報解析)を最新の技術で解読することに挑戦し、有名なネアンデルタール人の完全に近いゲノム解析に成功したことで、学問の手法が完全に変わってしまったらしい。

人間のDNA情報というのは、およそ30億個の文字列からできており、この情報を詳細に分析するのは、大規模なコンピュータープログラムや解析が必要であるため、それまで骨の形を見ながら、これは似ている、これは似ていないという話をしていた学問が、一気にBig Dataを扱う大規模チームによるデータ解析プロジェクト的な学問へと一気に変質してしまったということである。

結果として、アフリカを起源とする現生人類である我々ホモ・サピエンスが、どのような変遷をたどり地球上に広く拡散し、その過程で、ネアンデルタール人などの他の古代人類とかかわりながら、今日に至っているのかというような過程が、以前の骨の形の比較というレベルとは全く異なる確度で詳細に分かるようになっているそうだ。

例えば、この過程で分かったことの一例でいえば、ホモ・サピエンスの遺伝子には、一部ネアンデルタール人の遺伝子構造が入っており、ホモ・サピエンスの地球上への拡散の過程で、両者の交配が行われていたのはほぼ確定的であるらしい。しかも、ヨーロッパにルーツを持つ人は、それ以外のルーツを持つ人よりもネアンデルタール人の遺伝子が含まれている度合いが高いこと。さらに、ペーボ博士の研究チームの見解では、2020年頃に発生した新型コロナウィルスで欧米で重症化する確率が高く、日本をはじめアジア地域でその確率が低い理由は、ヨーロッパにルーツを持つ人に多く含まれるネアンデルタール人のDNAの一部がウィルスの重症化を引き起こしていた可能性が高いというようなことまで分かってしまうということだそうである。

ちょっと前に、今更ながらユヴァル・ノア・ハラリのサピエンス全史を読み始めていたのもあって、篠田先生の話は非常に興味深く、久しぶりにワクワクしながら聞くことができた。そうすると関連の動画を立て続けに見まくって、それっぽくにわか知識を得て、恥ずかしげもなくこのコラムを書いているという次第である。

ただ、別の動画で脳科学者の茂木健一郎氏が言っていたのであるが、それまで科学の分野でそれ以外のエリアの研究者から奥が深く理解が難しい代表例として「素粒子物理学」があげられていたのであるが、いまは分子人類学のほうが難しいかもしれないということなので、にわか知識の話はこの辺にして、上述の篠田先生のインタビューの話から、ビジネスとか、我々の日常生活にも役立ちそうな話をいくつか紹介したい。

分かっていることより分かっていないことの方が多い

まず、一つ目に印象的であったことは、篠田先生の「科学というのは分かっていることよりも、分かっていないことのほうが多い」という言葉である。この話は、先生が現在国立科学博物館という、日本最大の自然科学博物館の館長をしておられ、単に科学者として研究をするだけでなく、科学の研究成果をどのように一般の人々に分かるように展示をするのかということを考える立場にもいらっしゃるという現状から出てきた言葉で非常に面白い話だと思った。

この話は、まさに先生の専門分野の分子人類学の歴史を見れば明らかである。もともとは、古代人類の骨の形を見ながら、その形状の類似性をもとに、地域や年代の情報を付加しながら、古代人類の発展と拡散の歴史を点と点をつなぎながら仮説を立て、分かりやすく言えばストーリーを作り出していた(表現が適切ではないと思うが)分けである。ただ、そのような情報量では、それぞれの学者の研究成果をつなぎ合わせても、点と点の情報密度が今考えれば甘すぎて、決定的な一つの仮説に集約されることは少なく、〇〇説、××説のように複数の仮説が並列的に議論され、時には学説間の論争になったりする。そして、実はこのように複数の仮説間で論争になり、結論が出ないということは、実態としてその科学の課題・命題は、「分かっていること」ではなく、「分かっていないこと」なのだ。

科学というと私のような文系の人間は、高校の教科書で習った、物理、化学、生物、地学のように、教科書に答えが載っており、テストで100%の正解がある領域として知識が止まってしまっているので、どうしても論理的、客観的な答えが1つあるものだと思ってしまう。ただ、確かに、高校の理科系の教科書のすべての内容を完ぺきに理解したところで、できるのはせいぜい大学受験の試験問題で100点がとれる程度のことで、世の中のあらゆる事象を説明できるようにはならない。むしろ、説明できないこと、答えを導き出せないことのほうが大半である。

市場を完ぺきに理解できることなどありえない

実は、この話はビジネスの世界でも全く同じことがいえる。私が専門としているマーケティングの世界、特にデータドリブンなデジタルマーケティングの世界というのは、多くの場合結果が数値、データで示されるので、科学的で、答えが存在する領域であるように思われがちである。

もちろん、このブログで一貫して話しているように、正しいスキルを持つマーケターが、発展し続けるAIを活用したデジタルマーケティングのツールを正しく使いこなし、PDCAの高速回転をし続ければ、マーケティング効率の改善を実現することは可能である。しかし、それは、決して「唯一の正解」ではあり得ない。

おそらく、究極のマーケティングというのは、自社のサービスや商品を使ってくれる人、買ってくれる人のリストを事前に完ぺきに準備し、その一人一人にどのようにコミュニケーションし、それを何時行うのかを完ぺきに整理できて、正確に実現するということである。しかし、皆さんもお判りいただけると思うが、どんなに科学技術が発展したとしても、私はそんなことが実現できる未来が来るとは思えない。なぜなら、そもそも誰が何を考えているかを完ぺきに知るすべなどおそらく未来永劫発明されないと思うからだ。また、万が一そのようなことが実現したとしても、おそらくそんな情報を営利目的のマーケティングに使うことなど倫理的に許されないであろう。

では、答えのないそのようなマーケティングとは不毛でつまらないものなのだろうか?答えがあって、正解が簡単に見つかる仕事のほうが、楽で良い仕事なのであろうか?少なくても、私はそんな正解が簡単に見つかってしまうような仕事に自分の人生の時間を費やすことなどしたいと思わない。しかも、そのような仕事は、残念ながら付加価値は低くなりがちであるため、高い報酬を得ることもできないであろう。

このように考えると、我々が生きている世界というのは、未知の事象があふれているという篠田先生の指摘は全く持ってその通りであるし、だからこそ面白いのだ思うのである。

骨の形状を見比べる世界が、いきなり30億個の文字列を解析して、これまでわからなかった点と点のつながりをより明確に理解することができるようになった。こんなに楽しそうな話を聞いたのは久しぶりで、単純にワクワクするではないか!

集団間の際より、集団内の個人差のほうが大きい

もう一つ篠田先生のお話を聞いていて感心したのは、集団と集団の議論をして、どちらの集団のほうが優れていて、どらが劣っているという話を我々はしがちであるが、そのような議論は本質的に正しくない・意味がないという話である。

具体的には、日本人の起源のようなものをゲノム解析的にさかのぼっていくような研究をしていると、「日本人は特別だ」「日本人は他の民族よりも優れている」という議論をしたがる専門外の人が少なくないそうだ。しかし、そもそもDNA的にみれば2千数百年前に日本にはおそらく大陸からの移民が押し寄せて弥生時代にそれ以前に日本にいた人々と、大陸から移民してきた人たちの交配が進んでいるためそもそも日本に住んでいる人自体が複数の人種たちの混血であり、何か特別な遺伝的な特徴を持った人間ではないということだ。

そのような先生の視点から言えば、民族であるとか、人種であるとかで人間の集団をグルーピングして、その集団間の差異を議論することにはほとんど意味がないというご意見であった。なぜなら、一般的に集団間の差の大きさを考えるよりも、むしろ集団内の個人の差を見るほうが遥かに大きく、集団内の多様性に目を向けるほうが遥かに健全なものの見方であるということであった。

例えば、陸上の100メートル競争を考えてみれば、日本人トップ選手でも、アメリカ人のトップ選手でも同じく9.8-9.9秒というように、0.1秒程度の違いしかない。一方同じ日本人の中でみれば、9.9秒で走るトップクラスの人間もいれば、20秒程度でしか走れない人もおりその差は10秒とかの違いがある。さらにいえば、おそらく日本人の平均とアメリカ人の平均値をとってみたとしたら、その違いは10秒も違いが出ることはないであろう。

このように考えれば、人間の集団というのは、同じような別の集団(この場合は国)との差分を議論することには大きな意味はないということである。例えばオリンピックのような各集団の極一部の人同士のわずかな差を優劣として、集団同士の優劣を議論することにはほとんど意味がないということないのだ。

STPという概念は現代のマーケティング環境に適しているのか?

この話は、もちろん最近のビジネスのはやりの言葉でいえばDEIみたいな話にもつながるのかもしれないが、私の専門分野であるマーケティングにおいても重要な視点であると思った。

伝統的なマーケティングで重視されている項目にSTPというものがある。Segmentation、Targeting、Positioningの頭文字をとってSTPであり、いわゆるマーケティング戦略を考える場合の基礎となる考え方である。しかし、デジタルマーケティングのAI化が進展している中で強く感じていることは、このSTP的な考え方がマーケティングの世界でどんどん通用しなくなっているのではないかということである。人種や国の違いほどマーケティングのセグメントとかターゲティングの考え方にランダム性はなく、そのような集団間の違いよりはマーケティング分析の結果の顧客のグルーピング間には違いは大きくなると思うがそれは本質的な問題ではない。例えば、マーケティング分析の結果、市場を2つのセグメントに分け、Aというセグメントが自社の商品を買ってくれやすい顧客群でBはそうではない(ターゲットではない)顧客群と市場調査の結果分類したとする。しかし、AとBの違いというのは、単に分析の結果で統計的に顧客になりそうな人が含まれる割合が高いか低いかの違いであり、Bのセグメントに見込み顧客が存在しないわけではない。そして今はデジタルマーケティングの技術がどんどん進んでいるため、Bのセグメントから顧客を獲得できる技術ができている分けである。

そう考えれば、実はセグメントテーションをして、ターゲットを絞り込み、そこにどのような訴求をするのかを競合商品との差分を作るためにポジショニングとして明確化し、ターゲットに当てはまらない顧客群を捨ててしまうという作業に本当に意味があるのかを我々マーケターは真剣に考えなければいけないと思う。

たとえ見込み顧客の割合が高いAセグメントだとしても、そこに含まれる個々の顧客の趣味趣向は多様である。よほどニッチな商品で、セグメンテーションを極限まで細かくしているような場合は別かもしれないが、それなりの規模でヒット商品やサービスを生み出そうとすれば、マーケティングのリサーチにより切り分けるセグメンテーションに含まれる人々の趣味趣向や意思決定基準が単一であることなどほぼあり得ない。つまり、S→T→Pを順番に考え、一つの答えを出すようにマーケティング戦略を考えるという手法自体が、目の前のテクノロジーを考えれば古いのではないかと思うのだ。

分子人類学という学問分野は、ゲノム解析の技術がこの10数年で飛躍的に発展したことにより、BeforeとAfterで根本からやることも、考え方も、これまで信じられていた学説も変わってしまった。

もちろんマーケティングも、インターネットの普及とともに実務の現場は大きく変わってきている。でも、それに合わせて、理論は本当にその考え方が変えられているのであろうか?全く違い領域の分子人類学の話を聞きながら、日々考えているマーケティングの現実について考える今日この頃である。