性善説と性悪説

アメリカって結構性善説で社会が運用されている

3つの企業で仕事をしてきて、自分の働きやすい職場環境とかマネジメントの評価基準って何だろうと思うことがあるが、その代表例で挙げたいのが、会社が性善説でマネジメントされているのか、性悪説でマネジメントされているのかというポイントである。もちろん、マネジメント・管理される側から言えば性善説の方が過ごしやすいし、マネジメント・管理する側からすれば性悪説の方が安心ということになる。この話題を振っている時点で、当然私は性善説の方が好きなわけであるが。

私自身は日系の会社でしか仕事をしたことがないので、日系企業と外資系企業の比較は出来ないが、日本と米国で生活をしてきてなんとなく感じるのは、日本の社会って意外と性悪説で運用されていて、アメリカの社会は性善説で運用されているように感じることがよくあった。最近は日本でも米国でもレストランで現金で会計することが殆どなくなったので感じることもないかもしれないが、10数年前くらい前でも、米国で同僚とかと何人かで食事にいって割り勘にするときなど、まだ現金で支払いをすることがあった。日本のレストランって、テーブルでチェックするときも、casherでチェックするときも、お金を渡してお釣りをもらって、完了となる。しかし、米国の場合はTip文化が根底にあるためか、Cashで払う場合は渡された伝票の金額にtipを上乗せした金額をテーブルの上において客が勝手に出ていく感じになる。つまり、お店は客が請求額通り支払ったかどうかを客が店を出る前にチェックしないことになる。慣れてしまうと余り疑問に感じないかもしれないが、最初は結構違和感があった。だって、アメリカって日本よりも治安悪いんじゃなかったっけ?これって、やろうと思えば食い逃げ出来るんじゃない?電車を乗るときとかも、私が住んでいたサンフランシスコの市内のちょっと中心街から離れたあたり(といっても本当の繁華街から2-3キロ)だと完全に無人駅で、路面電車だと運転手オンリーの昔でいうワンマン運航が基本であるため、ぶっちゃけ無賃乗車しようと思えば出来てしまう仕組みであったりする。その代わり不定期でやってくる車掌さんみたいな人に見つかってしまうと高額な罰金を払わされる。一方、日本は都会の電車はほぼ間違いなく駅には自動改札があり、そこを通って、運賃を払わないとほぼ確実に電車には乗られない。

日本は性悪説で運用される社会

なぜ、このような違いが生まれるのだろうか?私は日本と米国では、そもそもの目的意識が違うのではないかと思う。まず日本の社会の基本思想って、悪いことをする(この場合は食い逃げとか無賃乗車とか)をする人間は必ずいる。そのような人間は、監視を緩くするとどんどん増えてしまうので、抑止力の意味も込めて全員をチェックしようと考えているような気がする。つまり、多くの人は監視を緩めると悪くなるという性悪説的な考え方が強い気がする。

一方で、米国の考え方は、一人一人細かくチェックしなくても、大抵の人はきちんと食事代は請求通り支払うし、電車の運賃も正直に払うものだ。でも、中には悪い人もいて、ズルをしようとする人もいるかもしれない。そういう人にはルールを破ったのだからペナルティを課すことで抑止力としよう。それで社会がワークするのであれば、大半の善良な人を疑って、全員をチェックすることにコストをかけるよりも、サンプルチェックですます方がオペレーションコストも安くなり、効率的である。という感じなのではないかと思う。つまり、大半の人はルールには従うものだという性善説的な思想が強い気がする。

どちらが正しいという問題でもないし、好みの問題とすましてしまっても良いのかもしれないが、私はそれで片づけてはいけない話な気がする。キーワードは、米国の例で上げた「効率」であると思うのだ。2つの国の社会のオペレーションスキームの作り方の違いは、当初は、人間にルールを守らせるアプローチの違いであったのだと思う。この時の動機には、どちらが正しいかは結局分からないので特に異論はない。

日本式性悪説は効率を考えないルール順守の目的化

しかし、日本式性悪説アプローチの問題点は、途中からチェックすることが目的化して、悪いことをする人を一人も逃さないためのチェックオペレーションを作ることに重点が置かれるようになってしまった。このため、オペレーションコストの増大に対する費用対効果の試算が行われず、そもそもそのコストを何のために支払っているのかという根本思想が抜け落ちてしまっているのではないかと思うのだ。

このように考えて、日本の大企業のオペレーションを見ると、同じような性悪説に依拠した数えきれないような目的も分からないようなルールとか報告のスキームとかが頻発して、お金を稼ぐ営利企業であるはずなのに、社内の管理業務であるとか、報告書の作成であるとかに膨大な時間と労力を使っているような気がする。私自身、全く事務処理能力がないタイプの人間で、そのような仕事が増えていくと人並み以上にパフォーマンスが落ちるのであるが、私は程度が悪いにしても管理業務が増えることによる生産性の低下は、多くの企業で問題なのではないかと思う。

そもそも、そのあたりの話が酷くなりだしたのは、エンロン事件など性善説に依拠した米国企業の巨額粉飾決済に端を発するSOX法とそれを模したJSOX対応のような話が本格化してからなので、一概に性善説がいいとも言い切れないのであるが。

性善説でマネジメントを成立させる2条件

では、マネジメントを性善説で行うためにはどうすれば良いのだろうか。私は2つであるのではないかと思う。「信頼関係」と「少ないルールの徹底」である。まず、性善説で組織をマネジメントするための大前提は上司と部下の間の信頼関係の有無に大きく依存するのは間違いない。とても曖昧で、目に見えない話なので、確認できるわけでも、信頼していたのに結果的に騙されたということもあるのかもしれないが、組織内のメンバー間の信頼関係がなければ、組織は性悪説でマネジメントをせざるを得ない。

これは、組織の人数が多いと実現性が困難になるのは事実なので、企業規模が大きくなるほど性善説的なマネジメントのハードルは上がっていく。これが、私自身が本当の大企業で仕事を出来ない理由なのかもしれないが。もう一つ組織内の信頼関係が低くなる要因は離職率が高く、人の入れ替わりの激しい場合である。規模が大きく、入れ替わりの激しい組織は個々人のパーソナリティの把握をすることが当然難しくなるので、信頼関係も必然的に低くなる。そうすると、性悪説マネジメントが強化され、業務効率は下がるし、社員のモチベーションが下がり、離職率が上がっていくという負のスパイラルが止まらなくなる可能性が高い。

ただし、もちろん信頼関係だけでマネジメントをするのは余りに楽観的過ぎるのは間違いないので、二つ目のポイントが重要になる。ポイントは「少ないルールの徹底」の「少ない」の部分である。日本の性悪説のオペレーションの最大の問題点は、ルールを守ることが目的化して、ルールを守るためのルールみたいなものが指数関数的に増えていく傾向が強いことである。良くある話が、とあるルールを守らなかった人が発生すると、そのルールを守らない人をチェックするための別のルールが出来るみたいな話だ。例えば、会社の飲み会でパワハラ案件が発生すると、いつの間にか部署の飲み会が申請制になり、各部署の飲み会の管理を会社がするというような馬鹿げた管理項目が増えるみたいな話である。実際にそんなルールのある会社があるのかどうかは知らないが、似たような話は皆さん思いつくのではないだろうか?

このようなくだらないルールやチェック項目が増えていくと、困ったことが発生する。ルールの意義が低いため、そもそもルールが守られなかったりチェックがいい加減になったりする。こうなると、さらに良くないのは、本来着実に守られなければならない基本的なルールの管理も一緒に曖昧になるという事態が発生しがちなことである。こうならないための一番の方法は、最初に決めた基本のルールを徹底的に遵守させ、そのルールを守らなかった人物には厳正に対処するという事である。私は自分の部署の運用のためのルールは可能な限り少なくなるように心がけている。特にマーケティング部門という組織は基本的にお金を使う部署であるので、お金周りの管理は徹底して行うことにしている。この管理が甘くなると、マーケティング部門に対する他部署、特に管理部門からの業務への介入が増えてくる。そんな仕事は管理部門もしなくてよいのであればしたくはないだろう。管理される方も、余計や資料作りが発生されたりしてマーケティング以外の仕事が増えていく。そのような事態は何としても避けたいといつも考えている。お金は最も代表的な例であるが、このような基礎的な決裁ルールはきちんと整備し、抜け漏れがないように徹底的な管理をするのが私はよいと思う。ルールというのは、義務であると同時に、本来安心感でなければいけない。ルールを守っていれば、その人は何か問題が起こったときに守ってもらえる。例えば、きちんとした手続きで決裁を得た支出が失敗をしたとしても、その責任は決裁を承認した上司にあると私は思っている。他方、決裁を得る前に暴走して、例えば口頭で発注してしまって後に引けず、事後的に承認を得て失敗した施策の責任は完全に暴走した人間の責任である。正しい手続きとは、その施策を実行する人間を守るための保険のようなものなのだ。そう考えれば、ルールを課す方にも、ルールを守る方にもメリットが存在する。そのような状況をどう作っていくのかを真剣に考えるべきである。

メンバーの信頼関係があり、自分の専門分野に集中できる職場を作る

私は自分自身が典型的なビジネスパーソンだとは正直思っておらず、だいぶ変わった人間であると自覚はしている。でも、常に考えているのは少なくても自分が働きたいような職場を部下に提供したいと思っている。その代表例が、上司や同僚に信頼され、自分の専門分野に出来るだけ集中できる職場である。そしてそれを実現するのが、性善説に基づいたマネジメントなのではないかと思っている。

貴方の部署のマネジメントは性善説 or 性悪説?