知らない言葉は使わない

3文字略語が嫌いな理由

私は、ビジネスによくあるアルファベットの3(くらい)文字略語が嫌いである。マーケティングで言えばCPAとかROASとかいう話である。よほどメジャーになり、明らかにその程度は知ってほしいという共通理解がチーム全員に浸透していれば使うが、余り多用しすぎないようにしている。

なぜ嫌いなのかと言えば、よほど頻繁に使う単語でないと、発言者がその意味も分からず使っていたり、定義が曖昧なまま使っていたりするケースが多いからである。こういう部分の曖昧さが会議での議論を曖昧にするし、議論のレベルを落とすと思っている。

同じような話で、Rate/率系のワードの話をするときに、その率のA/ BのAとBも曖昧なまま話をしている人も結構多い。低次元な話に聞こえる人は、それが普通なのではなく、良い環境で仕事をしていると考える方が良いと思う。私のこれまで見てきた部署でも、この系統の話は、就任当初とか、部署に新入社員が入ってきたときにたまに注意するあるある話だ。

新卒の社員が自分の部署に入ってきたときに私は、初めて聞く3文字略語であれば、必ず一度は何の頭文字を取っているのか必ずネット等で調べて確認するようにアドバイスしている。多くの場合、略す前の単語の意味が分かれば当然略語の意味も分かるからだ。さすがにマーケをやっている人であればCPAくらいは分かりそうなので、ROASが何の略語か分かるであろうか?Return on AD Spendである。スラっと答えられたであろうか?日常的にROASと会議で言いまくっているのに、これを言えなかった人は他にも同じような状況になっている可能性があるので、しばらく3文字略語を口走ったら、後で略す前の完全版を言えるかどうかチェックしてみるとよい。

これまで何度も議論してきた通り、データドリブンにマーケティングをするためには、データに基づいて、ロジカルに議論をしなければならない。そしてロジカルに議論をする際にデータとともに重要なのが、そのデータの補足説明をしたり、そのデータから得られる示唆を説明したりする際に使う言葉である。

 こういう話をして、思い出すのが、中高生の頃に誰に言われたかは忘れたが(多分予備校の先生な気がするが)、「知性のある人間に見られたいと思うのであれば、国語辞典を小まめに引きなさい」という言葉だ。自分の人生で余り後悔することはないのであるが、英語をもっと若いころから勉強すれば良かったということと同等レベルで、この教えを実践しなかったことには非常に後悔している。なぜなら、この年になると残念ながら取り返しがつかなくなってしまっているからだ。

 ただ、日本語全般に知性がない事に取り返しがつかないとしても、自分の専門分野の範囲においては大した量でもないと思うので、誰にでも実践できることだと思う。

知ったかぶりでごまかしても良いことは何もない

同じような話で重要だと思っているのは「知ったかぶりをしない」という話も良く思うことである。人間年を取れば取るほど、「そんなことも知らないの?」とは思われたくないものである。日本の学校教育のせいなのかどうか分からないが、日本ではセミナーとかで話をしてもなかなか質問が出てこないみたいな話も良くある話だ。実は私も、大学生までは、そのような思いが強く、学校などで、みんなの前で質問など殆どしたことのない人間であった。大人になってから私のことを知った人からは意外かもしれないが。その考えを変えさせられたのが、自己紹介の一発目でも登場した米倉誠一郎先生の授業であった。ポイントは授業の評価の方法である。先生は最初の授業で、「この授業の評価で期末に行うペーパーにテストの割合は50%とする。残りの50%は授業への貢献度。つまり授業中の発言で行う」と言われてしまったので、授業中に質問でも、意見でも何か言わなければいけなくなってしまった。この経験が、私が人の意見に対して、とりあえず何か言うというタイプの人間になってしまった理由である。

特に私のように、部下の報告を聞いて、必ず何かフィードバックするということを自分への義務として課しているような人間だと、会議中に部下が自分の知らない単語を発した場合に、それが何のことが分からないと内容が理解できないということになるし、一所懸命理解しようとしているので、打ち合わせ中に調べることも出来ない。そうすると、知らないことははっきりとわからないので教えてくれと言わないとしょうがない(もちろん、調べる余裕がある会議であれば、ネットで検索するが)。その結果、堀内はこんなことも知らないのかと思われても、それは勉強していないのだから致し方ないと思うことにしている。寧ろ、部下に新しい知識を与えてくれてありがとうと感謝している。

言葉を正しく使うことはロジカルに考える出発点

これまで、マーケティング人材の育成のポイントは、物事を狭く、深く考えることであると話してきた。その実践のためには、トヨタ方式で「何故を5回繰り返す」みたいな方法がいいと思うが、そもそも最初の問題意識の把握の時点で意味を取り違えてしまったら、その5回の何故も深堀が見当違いのところに進んでしまう。言葉の意味や、事象の理解が曖昧であるということは、深く考える出発点を曖昧にしてしまうリスクを高めてしまう恐れがあるのだ。

30代前半のころ同じ部署で仕事をした人で、私から見ても本当に素直に分からない、教えてくださいと言える人物がいた。その人物は今結構優良なベンチャー企業のマネジメントメンバーになっているが、今考えると本当に素晴らしいとこういう話をする度に思う。彼は金融系から来た人でデジタルビジネスの経験が少なかったので、デジタルビジネスばかりしてきた自分からすると、そんなことも知らないのかと思うことは正直当時はあった。しかし、50歳を前にした優秀に見られたい願望があるオジサンになってみると、益々、彼のような知らないことを知らないといえる、曖昧にしないという姿勢は、自分の成長のために重要であると思う。昔の私のように「そんなことも知らないの?」と思っているやつには思わせておけばよい。そう思う人は、おそらくそう思われたくないので質問できない。もちろん、その人が分からないことがあれば必ず後で意味を調べたり、個別に理解出来るまで質問したりする人であれば、その個人としては成長出来るかもしれない。でも、その会議の中に、自分と同じように分からないと思っている人がいた場合、その人の自己完結的な努力はその個人一人の成長には寄与するかもしれないが、チーム全体の貢献にはならない。それであれば、みんなの前で質問したほうが私はチーム全員にとって寧ろ生産的だと思うのだ。そして、それを繰り返した本人は、自分の知らないことを曖昧なままにしてしまっている人よりはほぼ確実に成長できるのであるから、一挙両得だ。

よく電子顕微鏡とかの映像をテレビなどで見ると思うのだが、普段何気なく見ているものを超拡大すると自分が見ているものと全く別世界のように見えてしまう。つまり、人間何かについて深く考えれば考えるほど、実は知らないことというのは無限に増えていくのだと思っている。そう思えば、何かを知らないなどということは何も恥ずかしいことではない。私のように、本も読まず、国語辞典を引かなかった人間は、それがばれてしまうので多少恥ずかしい部分があるが、もう、それは若いころに負ってしまった借金なのでしょうがない。でも、自分の成長のため、議論の精度を上げるため、その結果パフォーマンスをあげるため、知らないことは知らないと認め、聞いたり、調べたりしてほしい。自分を自分でごまかして、賢いふりをしてもなにも良いことはない。