知識創造企業 ~野中郁次郎先生の功績~

野中先生の業績

私の知る限り、おそらく日本人の経営の学者で世界で最も高い評価を得ていた方の一人(というか、おそらくダントツ)である野中郁次郎先生が25年1月にお亡くなりになった。(本当に、心からご冥福をお祈り申し上げます。)

野中先生は、私が大学・大学院と通った一橋大学で長く教鞭をとられていたが、大変残念ながら私の在学時には退官されていたため、直接講義をお伺いする機会には恵まれなかったので、この点は大変残念であったが、幸い野中先生と長く研究やお仕事をされていた米倉誠一郎先生や竹内弘高先生の講義を受けることができたので、お二人の先生を通じて野中先生のお話を何度もお伺いする機会もあったし、その影響で主要な著書も読ませていただいた。

野中先生は著書も膨大であるが、最も有名な業績は2つであろう。一つ目は、100万部以上の販売実績がある「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」である。第2次世界大戦の戦時史研究をベースに組織論的な視点から旧日本軍がなぜ敗れるに至ったか(ちなみに、本書ではそもそも第2次世界大戦への日本の参戦は勝てない戦争であったという前提にたっているが)が詳細に論じられている。

もう一つは、今回の表題にもした「The Knowledge Creating Company(邦題 知識創造企業)」においてナレッジマネジメントという経営学の新しい潮流を生み出したことだとである。日本国内においては本の販売数を見ても、野中先生といえば失敗の本質だと思うが、グローバルの視点でいえばナレッジマネジメントという経営学の一分野の生みの親的な位置づけで、圧倒的に後者のほうが有名であろう。ちなみに、このBlogを読んでいる方にはIT系のビジネスにかかわっている方も多いと思うので、そこにかかわる話でいえば、ITソフトウェア開発の主流プロジェクトマネジメント手法であるアジャイル開発におけるスクラムの概念なども野中先生と竹内先生のナレッジマネジメントのもとになった論文で紹介された日本企業の製品開発の事例研究からアイディアを得ていたりする。

と、野中先生の凄すぎる業績を書き出せばきりがないし、その内容を私のような学者でもない素人が解説するのは僭越すぎるし、ちゃんと理解できている自信もないので、野中先生の考え方の変遷とか、今考えていることなどを米倉先生と一緒に話している、対談のYoutube動画でお話ししている内容をもとに、考えたこと、刺激をいただいたことを書いてみたい(1時間ちょっとなので、是非動画も見ていただければと思います)。

情報処理委理論から知識創造へ

まず、私などは大学院生になるちょっと前に出た1995年に出版されたThe Knowledge Creating Companyから野中先生の本を読んだので、そこに至る詳細な変遷を正しく理解していなかったのであるが、野中先生がKnowledge Managementと言い始める以前の組織論の研究というのは、如何に効率的に情報を処理するのかというのが議論の主眼であったということである。当初は、決まった情報を如何に素早く処理して組織を円滑に回すのかということが主眼であったが、そもそも企業が処理すべき情報というのは企業が直面する環境の変化により処理する情報の種類・内容が異なってくるということで、コンティンジェンシー理論(contingency=偶発性、偶然性、不確実性)というものに発展してきたそうである。野中先生はこの最新のコンティンジェンシー理論をカリフォルニア大学バークレー校(サンフランシスコの郊外にある素晴らしく格好いい大学)で学び、日本に持ち帰っていらっしゃった。ちなみに、この博士論文は帰国後に日本語に翻訳して出版され、日経・経済図書文化賞をいきなり受賞されたということだ。

しかし、野中先生はこのコンティンジェンシー理論を研究している最中から一つの疑問を持っていたそうだ。それは何かといえば、情報を受動的に効率的に処理するだけでは、イノベーションを企業がどのように起こすのかということが説明できないということだ。ものすごくドライな言い方をすると、情報処理の理論において前提としている人間というのは、働きアリのような存在で、目の前に大きな石があればよけて迂回するというように、目の前に起こった事象に対して受動的に反応することはできるが、自分の意思を持って能動的に行動することを全く前提としていないということであった。しかし、イノベーションというのはもっと人間的な活動で、「こうしたい」「こういう問題を解決したい」という欲求のようなものが原動力になり生み出されるものなのではないかと考えるに至り、様々な人との議論を経て、知識が産まれるプロセスを体系化することを考えることになったそうだ。イノベーションというのは、人間の意思、主観、経験のようなものが組み合わされた、より人間的な活動で、アリが荷物を運ぶような営みではないはずだというわけだ。

こんな話は、言われてみれば至極当たり前の話であるような気がする。ただ、実際に会社で仕事をしたことがない純粋な学者の人にはなかなかわかりにくいのかもしれないが、9年間の事業会社でのビジネスマン経験があった野中先生のような方からすれば、学術界で議論されている話が、ご自身の経験にそぐわないということで、ずっと違和感を持たれていたのだと思う。

私の経験に照らしても、私がどれだけ優れたマネジメントができているのかは自分ではわからないが、それなりにイケていると仮定して、これまで自分が見てきた部下のマネジメント手法を見てみると、組織のマネジメントがうまくできない人というのは、頭が悪くて考えが足りないというケースは少なく(私の部署で高く評価して、マネジメントを任せるような人材は基本的に論理的思考力が足りないというケースは稀であるというのもあるのかもしれないが)、むしろ論理的に考えすぎて、こうやったほうが効率的だとか、こうするのが最もロジカルだからという手法や仕事の進め方をやり切ってしまうということが多い気がする。

しかし、以前にも「ロジックを超えたもの」というコラムでも書いたのだけれども、人間が集まった組織というのは、客観的なロジックだけではうまく回らない。以前のコラムでは「愛」という言葉を使ったが、人の思いとか、欲望とか、意思とか、論理的に説明できない何者かは必ず存在していて、それを無視してしまっては多くの場合、組織はうまく回らなくなったり、メンバーが活き活きと働けなくなったりすると思う。

別の動画で、楠木先生が仰っていた野中先生の一言がこの話を凄く的確に表現していると思うが、野中先生は情報処理をベースにした理論を「暗い」と表現し、経営学というのは「明るくないとダメだから、情報処理の理論は捨てる」と学生の前で宣言したそうである。私はこの話を聞いて、強い共感を覚えた。25年のビジネスマン人生を振り返っても、周りの人から見れば、私のしてきた仕事というのは、長時間労働で、様々な人から無理難題を押し付けられ、板挟みにあい、とても楽しそうには見えなかったかもしれない。ただ、もちろん一瞬一瞬でつらいな、面倒だなと思うことはあっても、私の性格なのか基本的には様々な課題をどのように解決するかをチームのメンバーと話し合い、PDCAという名の試行錯誤を繰り返し、新しい発見を喜ぶという日々の繰り返しを辛いとか、つまらないと思い悩んだ記憶がほとんどないし、もしそのような状況になりそうになった場合は、自ら新たな課題(欲求)を設定して、面白いと思えるサイクルを自ら作り出すように心がけてきた。

私が25年間でどれだけのイノベーションといえるものを生み出せたのかはよくわからないが、ビジネスというのはそのように人間的で、明るく、楽しいものでなければいけないのではないかと強く思っている。

知性同士の真剣勝負(知的コンバット)とは?

ただ、野中先生がこの対談の中で協調されていることは、その人間的なプロセスは、単に明るく楽しいものではダメで、ある目的に向かって人と人が繰り返す考えをぶつけ合う真剣勝負、戦いでなければならないとも強く仰っている(知的コンバット)。そして、今の日本企業に足りていないものこそ、この真剣勝負の戦いなのだと仰っている。

この点についても、私は強く共感する。私は自分のビジネスマン人生を楽しいものであったと表現したが、その楽しいの意味は「レクリエーション」的な楽しさではなく、間違いなく「知的好奇心」や「知的発見」のような楽しさであるということである。そして、知的な楽しさを得るためには、ぼんやりと考えるだけでは全く不十分で、目の前にある困難な課題や、その実現を難しくする環境や、対峙する競合企業と真剣に向き合い、突き詰めて考える必要があるのだと思っている。

野中先生は、そもそもイノベーションを起こすということは並大抵のことではないのだと仰る。真剣勝負の中で、変わりゆく環境・状況の変化の中で、その瞬間・その瞬間に何が正しく、何が間違っているのかを考え続けなければいけない。そして、それは単に個人で考えるのではなく、会社という組織において、一緒に仕事をする同じチームのメンバーと自分の経験に基づく暗黙知同士をぶつけ合い、共感して、形式知として形にしていくという人と人との真剣な議論により初めて実現するのだと仰っているのだ。

また、PCDAに話を戻そう。この話を改めて聞いて、考えらせられたのは、知的創造企業を読み、SECIモデルという暗黙知と形式知の転換の繰り返しだという理論的なサイクルは理解していたが、そもそもこのSECIモデルの現実世界の運用の現場が、野中先生がお話しされているような熱量のものを表現されているのだということまで、書籍を読んだだけでは理解していなかったということである。しかし、一度この点を理解したとき、私が、デジタルマーケティングで最も重要であると考え続けているPDCAサイクルの徹底した高速回転という考え方、それを競合企業よりも遥かに高速に、精度高く行うというコンセプトは、SECIモデルの高速回転に立脚した行動であったのだと、改めて認識するに至ったわけである。

Over Planning、 Over Analysis、 Over Compliance

この話の中で、同じく野中先生が仰っているのは、現在の日本企業の問題は、Over Planning、 Over Analysis、 Over Complianceであるということであり、このような一見スマートで、プロフェッショナルな仕事の仕方には、その人の人間的な欲求や、思い、志のようなものが含まれていないのだと仰っている。しかし、イノベーションというのは、人間が行う行為であるので、初めに人ありき、思いありきでなければ、始まらないのだと仰っている。もちろん正しく分析をして、計画を作れば、それっぽい組織のディレクションを提示することはできるであろう。しかし、そこに発案者のなぜその問題を解決したいのか、それによりどのような世界を実現できるのかという思いがなければ、その計画にイノベーションを起こすほどの推進力は産まれないのだということだと思う。先生は、このような思いを持つ人を、「知的野蛮人」という言葉を使って表現されているが、単純に言えば、何かを生み出すためには、何が何でもやり遂げるんだという強い意志のようなものは必ず必要なんだと改めて思うわけである(という話を書いていると、最も鮮明に顔が思い浮かぶのは、20代半ば~30代半ばという自分のビジネスパーソンとしての人格を形成する最重要期に傍で仕事をさせていただいた三木谷さんの顔だったりして、改めて、楽天という会社があそこまで成長でき、社会にインパクトを残せた理由も、なんとなく実感値として理解できるような気がする)。

私が昨今の日本社会をみて心配になるのは、お行儀よく、スマートに立ち回ることが良いことであるという理解がステレオタイプに浸透しすぎていることであると思う。もちろん、私の若いころにたまにいた、やたら高圧的に人を叱責したり、異性の尊厳を傷つけるような行動は言語同断である。ワークライフバランスが叫ばれる背景として、精神的な健康を維持したり、男女が均等の負担で家庭の運営を行うべきなど、私が若いころから改善すべき点があることも理解する。しかし、今の日本社会というのは、そのような流れに過剰に適応してしまってはいないであろうか?例えば「ワークライフバランス=長時間労働が悪」なのであろうか?少なくても、私は自分の仕事よりワクワクできるような趣味を持ち合わせていないので、ワークの時間が長くなったからと言ってライフを犠牲にしているとは思わない人間である。すべての人に同意してほしいとは全く思わないが、少なくても私個人は25年そう生きてきたし、仕事をしていない時間も、仕事のアイディアを考えたり、他社のマーケティング施策を生活の中で分析したりすることに頭を働かせていることが楽しいので、仕事に近いことを余暇の時間も行っていたりする。しかし、私が知る限りの一般的な事業会社において、若者に対して、一律に長く働くことが悪だと教えているのではないだろうか?

米国の企業で高い給与水準で仕事をしているような、いわゆるエリートといわれる層のビジネスパーソンにもこれまで多くあってきたが、彼らの多くは、日本人よりも遥かにハードワーカーである。特にグローバルに活動している企業においては、時差のある顧客や社内組織との仕事をしなければいけなかったりするので、この人いつ休んでいるんだろうと思うくらい、常に動き回っている人も結構いたりする。しかし、今の日本社会において、若者にそんなことをさせたら、すぐにブラック企業のレッテルを張られてしまいそうである。

如何にイノベーションを起こせる人材を育てるか?

もちろん社員に対して、嘘をついて入社をさせ、長時間労働を強要することは問題である。それは個人に選択権を与えていないからである。しかし、自分の働き方・ワークライフバランスを自分で決める自由はもっとあっても良いのではないかと思う。自分の仕事を通じてイノベーションを起こして、社会を変えたいと思ったとき、寝食を忘れて没頭することも時には必要であるのではないか?体が元気で、無理が効く若い時期に仕事に没頭して、自分の経験値を一気に積み上げるという選択肢を選ぶことができても良いのではないか?もちろんそれは、日本人の大多数の人が喜んで選択する選択肢ではないかもしれない。つまり「普通」ではないかもしれない。しかし、日本人の全員が、「普通」になってしまったら、日本経済はイノベーションを起こして、海外の企業に打ち勝って行くことができるのであろうか?

少なくても、私が日米欧で仕事をしてきて思うのは、よく言われる日本人の生産性が低いこと、特に、ホワイトカラーの生産性が低いことに対して、日本人は長時間ダラダラ仕事をしているからだという議論が正しいと実感として思ったことはほとんどない。もしかしたら、働かないおじさんがたくさんいるような職場というのがあるのかもしれないが、少なくても私はそのような会社で仕事をしたことはない。では、なぜ日本社会のホワイトカラーの生産性が低いのかといえば、個々の会社がイノベーションを起こせず、収益性の低い状態で多くの人を雇い、仕事をし続けているからであろうと思う。

野中先生の無茶苦茶熱い思いの詰まったお話を聞いたとき、改めて思ったことはこんな感じである。イノベーションを起こすということを野中先生は経営学という世界で、ご自身が実践されてきたのだと思う。Knowledge Creatingに最も重要なことが、経験に基づいた暗黙知から出る思いなのであれば、野中先生ご自身が新しい理論を創造する仮定こそが、Knowledge Creatingそのものの体験であり、暗黙知の発露であったのではないだろうか?

その偉大な業績と、熱いお話を効く限り、なかなかこういう人はこれから出てこないのだろうなと残念に思ってしまう。心からご冥福をお祈りしたいと思う。