2軍選手の自己分析‐一流になれない理由

能力ある選手がなぜ2軍でくすぶり続けるのか?

相変わらず野球のYoutubeの話になってしまい、お前はどれだけ野球のYoutubeを見ているのだと言われそうだが、ボケっとしている間は大抵の場合テレビの画面に移っているので、応えは結構みていますとなってしまう。ということで、性懲りもなく、また野球の話である。

今回もまた2軍監督の話であるが、以前に話題に挙げた高橋慶彦氏の話ではなく、今度は元ジャイアンツとベイスターズの選手で、前ベイスターズ2軍監督であった、仁志敏久氏のお話である(対象の動画はこちら)。

仁志選手というのは、高校→大学→社会人と野球のエリート街道を歩んできた選手で、プロ野球に入っても、直ぐにジャイアンツのレギュラーとして1年目から活躍した人なので、本人は現役選手であった時に殆ど2軍にいた経験がなかったそうなのだが、いざ2軍監督になって、2軍の選手、つまり、プロ野球で活躍できない選手を日々間近で見る中で、2軍でくすぶっている選手と1軍で活躍できる選手のちがいが次第に分かってきたという事であった。

そもそも、プロ野球選手というのは、何万人もいるアマチュアの選手の中から、毎年70-80人位の選手がドラフトされてなっているわけなので、プロ野球選手になっているという時点で、個々人の才能という意味であれば、1軍で活躍できる選手と、2軍でくすぶっている選手の間にはそこまで大きな差があるわけではないという事である。

では、どこで差が生まれるのかと言われれば、自分の強みやチーム内での役割、自分の現時点の能力と将来に向けたポテンシャルのような様々な情報を客観的に分析して、自分をどのような方向で成長させ、その結果チーム内でどのような役割を獲得して、プロ野球選手として活躍できる機会を得ようという頭の整理と、その整理で考えたディレクションに向けて正しく練習を積んでいくという積み重ねが足りないのだというケースが大半であるという話をしていた。

例えば、バッターであれば、超一流選手の打撃理論をYoutubeなどで研究し、その理想的なバッティング理論を正解と位置付けて、そのコピーが出来るように練習して、それを試合で実践する。打撃練習でバッティングピッチャーやピッチングマシンが事前に決めた球種を打つ練習をしている時には、ある程度その理論に近い真似事は出来るようになるのかもしれない。しかし、実際の試合というのは、相手があることなので、事前にどんな球種の球がどんなコースに来るのか分からない状態で対応しなければいけないので、練習の決まったシチュエーションで実行できた程度の習得度合いでは、その理論を実際の試合で実践することが出来ない。そもそも、その理論は超一流選手だからできたことで、その数歩前の段階でとどまっている2流選手が中途半端に真似をしようとしても、そもそもGAPが大きすぎて出来る可能性が低い。しかし、Youtubeでこの理論が正しいと超一流選手が言えばそれは「正解」なので、それ以外の方法論はなかなか受け入れられない。みたいな状況になってしまうようなケースが多いということなのだ。

また、これは別の所でよく話されている話ではあるが、最近はYoutubeを始め、野球の技術に関する情報が以前と比べて世の中にあふれているので、若い選手がそのような情報源から超一流選手の技術情報を入手してしまっているので、Youtubeで話をしていた元選手よりも現役時代の実績が劣る自チームのコーチの指導が耳に入ってこないことも多いということであった。

「正解」があると思ってしまう幻想

この話を聞いたときに、私が思い出すのは、最近世の中に蔓延している「効率重視」の姿勢の問題点である。この話は以前、効率はそれ程重要か?という話でも述べたので、興味のある方はこちらも読んでいただければと思う。おそらく、皆さんが自分の職場を見ていても、これと似たような話はたくさんあるような気がする。

まず、この話に出てくる2軍選手の最大の問題い点は、「正解が存在する」と考えてしまっている事だと思う。しかし、プロ野球のような究極のレベルでの戦いにおいては、「正解」など実は存在しない可能性が高いというのが現実なのだと思う。

なぜなら、人間というのは当然人それぞれ、体格も違えば、筋力の質と強さも違い、反射神経や脳から筋肉への情報の伝達速度も違う。それが、アマチュア野球レベルの試合であれば、圧倒的な相手ピッチャーもしくはバッターとの能力差で上記で例示したような個人差などカバー出来てしまうのだと思うが、プロレベルの究極の戦いにおいては、そのような個々人の個性の差を理解したうえで、その個性にあった方法論を自分なりに作り上げていかなければよい成績など残せないのだと思う。つまり、「正解など存在しない」のである。

昔であれば、世の中に十分に情報がなかったので、正解らしきものの情報がそもそも流通していなかったので、若い選手たちがそのような情報に飛びつくことが少なかったのであるが、最近はそれらしき情報が大量に流通してしまっているために、「正解」を正しく行うという幻想を追い求めてしまう状況になってしまっているのではないだろうか?

という話を一般論的に書けば、それは何も野球に限った話では到底あり得ない。少なくてもビジネスにおいては全く同じようは状況であると思う。

すべての条件が一致しなければ同じ解決策は使えない

私は、ビジネスに「正解」など存在しないと思っている。そもそも、同じ時間を2回過ごすことは物理法則的に不可能なので、2つのオプションがあった時に、そのどちらが「正解」であるかを検証することも厳密には不可能である。出来るのは、どちらがBetterかをABテストで見つける位の話である。

また、新規事業の話をしたときにも似たような話はしたが、ある会社で「正解」のように見える話を、同業他社が真似したとしても、それが必ずしも「正解」であるかどうかも分からない。なぜなら、相手にしている対象の市場はほぼ同一かもしれないが、それを実行する企業には、人材の質、会社のカルチャー、それまで蓄積されてきた知識やデータなど細部において必ず違いがあるからである。

私は、これまで事業会社において様々な事業のマーケティングを直接間接的に見てきたし、現在は様々な企業のマーケティング戦略やオペレーションのお手伝いをさせていただいているが、その際に気を付けていることは、もちろんこれまでの経験に基づいてこうすれば良くなるのではないかという「仮説」は準備して臨むが、こうやったら絶対うまくいくみたいな「正解」を決めて、それを当てはめて成果を上げるような仕事の仕方は絶対にしないようにしているつもりである。

もちろん、25年位のデジタルビジネス業界での経験があるので、他の方よりも、様々なシチュエーションにおける役立ちそうな事例やソリューションの引き出しが多い自信はあるが、どこかで使ったソリューションが別の会社や事業でそっくりそのまま転用出来ることは基本的にはないと考えているからである。

現在の立ち位置の理解から改善を積み上げる

我々が直面している市場というのは、常に変化している。特に、昨今のSNSを中心とした情報拡散の嵐の中において、今日の市場と明日の市場が同じものであることなどあり得ない。であれば、「これをやれば正しい」という正解なども当然あり得ない。なぜなら、それがどんなに考えた時点で限りなく正解に近かったとしても、それを実行しようとするタイムラグの間に、市場は変化してしまうのであるから。つまり、私たちは相手へのアクションとそれから得られるリアクションの継続の中で、相対的にその時点で正しいと思われる最善解を追い求めるしかないのだと思っている。

自分が今やっていることが正しいかどうか分からないというのは、不安になるし、結果的に間違っていることもあるので、その意味では辛いこともあるかもしれない。正解と誰かが言ってくれれば、それに飛びつきたい誘惑にもかられるであろう。ただ、よくあるノウハウ本とかは違うかもしれないが、一流の野球選手もそうだし、一流のビジネスパーソンであっても、私の知る限り、自分の考えは表明したとしても、自分のやり方、方法論が絶対に正しいなどとは軽々に言いはしないと思う。少なくても、多くの若いプロ野球選手が見ているであろうYoutubeの技術論の動画など見ても、かつての一流選手は「自分はこうやっていた」という話はしても、「こうやるのが正解だ」というような発現は見たことがない。おそらく、それは受け手側の問題で、「あの〇〇さんが言っているのだから」という理由で、勝手に正解だとして受け取ってしまっているのだと思う。

自己を成長させたり、ビジネスを成長・改善させるために必要なのは、まずは、現状を正しく分析する事である。そして、その問題点を解決する手段を具体的に検討するというステップに進む。そもそも、このステップを踏まなければ、他でうまくいった手法が自分たちの問題に適用可能なのかどうかなど分からない。仁志氏が2軍の選手が1軍で活躍できない理由を聞いていると、おそらくこれと同じ話が起こっているのだと想像する。自分の現状分析ができておらず、自分の現在地を理解できていないのに、勝手に「正解」だと信じる理想のゴールを一足飛びにマネすることをしてしまっているのであろうと思う。しかし、その理想の技術を習得した人も、最初から正解にたどり着けていたわけではなく、様々なプロセスを経てそこにたどり着いたはずである。そのプロセスを省略して、お手軽に正解にたどり着こうとること自体にそもそも無理があるのだ。結局は、いつでも、どこでも通用するような、簡単な答えなど、世の中には存在しないのだという前提で考えることが重要なのだと思う。