一人で考えるということ

会社員をやめて一人で仕事を始めて思うこと

16歳で東大に合格し、日本政府から天才と認定された(そんなことがあるんだ!)カリスという青年がいる。現在は、医療AIの研究者で医療AIのスタートアップ企業を立ち上げている。以前、スマートニュースかGoogle Newsで何気なく記事を探していた時にふと目にした下記の文章「16歳で東大に合格した男が「必要以上に群れたがる日本人」に思うこと」に共感、納得したことが多かったので、今日は、この文章を切っ掛けに一人で考えるということについて議論してみたいと思う。

25年間のサラリーマン人生をやめて、一人で独立して改めて考えることは、まず第一に「孤独」であるという事である。独立して自分の会社を作るときに、事前に顧客のあてがあって始められる人もいるのかもしれないが、私の場合は特にそのあてもなく、完全にゼロからのスタートだったので、最初の数カ月は同じ家に家族と愛犬はいるとしても、仕事を探して、お金を稼ぐという視点では、孤独な状況でのスタートであった。

幸いにも、これまで一緒にお仕事をさせていただいた方や、そのお知り合いの方などを通じて、お仕事をご紹介いただける機会もあり、少しずつお仕事を頂戴出来るようになってきて、少しずつ形が出来つつあるが、いろいろな人に心配する必要はないと言われつつも、正直最初は結構不安であった。

ただ、一人になってみて、良かったこと、変わったことというのも少なからずあった。まずひとつは、25年間、会社にという組織に所属し、そのうち23年間位は部下がいて、自分だけでなく組織をマネジメントして、自分がマネジメントする組織や所属する企業のパフォーマンスをあげることに一日の大半の時間を費やしてきたときとは比べ物にならないくらい、時間が出来たことである。

その余裕が生まれた時間を使って始めたのが、25年間自分がやってきたマーケティングに関する考えや、ビジネスに対する考えを纏めて見ようと思って書き出したこのBlogである。そもそも、会社員をやっている時は、纏まった時間を取ることが頑張れば捻出出来たかもしれないが、残念ながら全く自分にストイックになれない人間であるため、今回のような切っ掛けがなければ、到底無理なことであった。

そして、このBlogを書くという行為に付随して実施出来たことが、「考える」「自分の頭を整理する」という事であった。まずBlogを書き始めるに当たってやったことは目次を作る作業であった。書きたいテーマ、書けるテーマをリストアップして、それをドリルダウンしたサブテーマを書き出して、全体の章立て、構成を考えることをまずやってみた。この作業は意外と簡単で、数時間で100弱の項目をリストアップ出来た。

その次の作業として、今度は一つ一つのテーマについて文章を書きだしたのであるが、リストアップした段階で「このテーマではこの内容で書こう」みたいなアイディアは当然持っていたが、実際に書き出してみると、最初に頭で思いついたことだけでは分かりやすい文章にならず、文章を書いているうちに、自分の頭の中で考えていることが、どんどん整理され、体系化(という程のものでもない気がするが)されて文章化されていくという体験をした。

どの内容についても、これまで所属した会社において同僚やチームのメンバーと話しながら、体験したこと、考えたこと、議論したことが土台になっていた。しかし、おそらくこの10数年間は、私自身は自分で資料を作ったり、データをエクセルでいじったりという作業は殆ど行わないという業務スタイルを取っていたので、そのやり方は、チームのメンバーが作った資料やデータ、口頭での報告というインプットに対する、自分の脳内の思考と、口頭での議論がベースになっており、じっくり時間を使って一人で考えるというスタイルで構築されたものではなかった。つまり、誰かは決まっていなかったが、殆どの事が他の人との共同作業によって行われてきたものであった。もちろんそれは、この20年間位で、勉強嫌いな私が編み出した私なりの最も効率的な勉強法であるので、その当時に私には最も自分を成長させる有効な方法であった分けであるが。

しかし、その様な25年分の大量の思考結果を一人で文章としてOutputするという段階になると、文章化するというより強固な論理展開が要求されるというシチュエーションと、その論理展開を一人でより深く追求するというプロセスを経ることによって、自分の思考がより精緻化され、自分でも予想していなかった整理が出来たという体験をした。

一人でないと深い思考は出来ない

このような実体験から得た教訓は、一人で考える時間の重要性である。人間が何か物事を考えることにまず重要なのは、Inputであろう。どんなに頭の良い人でも、何から何まで自分でゼロから考えられるという人は殆どいないであろう。それが部下であり、同僚であり、メディアであり、書籍であり、カンファレンスであり、商談でありと方法は様々であっても、人間が物事を考えるうえでは、間違いなく考える基盤や、切っ掛けとなるInputは必要である。私の場合は、25年間のサラリーマン生活は、デジタルマーケティングのInputという視点では非常に恵まれており、世界最高レベルの環境を整える努力をしてきたし、少なくても日本最高レベルの環境を作ることが出来ていたと自負している。

ただ、この半年の経験で分かったのは、どんなに良いInputを出来たとしても、他人との共同作業によるOutputだけでは、思考の深度に限界があるということである。会議におけるディスカッションによる新しいアイディアの発見などは、この考え方によると思考の深化ではなく、おそらく、Inputの連続という刺激から生まれる浅い思考の結果から生まれるOutputである。もちろん、それ自体に価値がないわけでは全くない。但し、その浅い思考の結果には、深い思考の結果に裏付けされたロジックが必要であるということだ。

このように考えると、私がデジタルマーケティングで重視するPDCAという手法は、この浅い思考のOutputであるアイディアをアイディアで終わらせず、深化させるプロセスを組織的に行うための仕組化の手法であると言える。

しかし、今回分かったのは、ここに一人で考えるというプロセスが加わると、思考はより深化するということだ。これは私には非常に重要な発見であった。

人と違うことをしなければ違う結果は得られない

ということで、一人で考える事の重要性の一端についてはなんとなく理解できたとして、次に重要なのは、「一人になる」ことへの勇気を持てるかということな気がする。

この点、おそらく私自身は相当な変わり者なので、ステレオタイプ的な日本人とは少し違っている気がしている。冒頭に紹介した記事の最初にも、日本人は不安遺伝子の保有率が8割となっており、世界で最も不安を感じやすい民族らしく、そのせいか「孤独」に対する恐怖感が強い(著者は群れたがると表現しているが)らしい。私は、調べたことはないが、おそらく、その不安遺伝子なるものを持っていない2割に属するような気がしていて、不安やプレッシャー的なものに相当鈍感で、意外と一人になることに違和感がない。デジタルマーケターという職種上全く使わない分けにも行かないので、SNSなどもサービスが普及し始めた当初から使ってはみるが、正直個人の欲求として使いたいと思うことは、ハッキリ言って全くない。また、自分の友達が私といない間に何をしているかについても殆ど興味もないし、他人が何をしているかを自分と比較して、自分の生活を考える(優越感に浸ったり、劣等感に苛まれたりする)ことも殆どない。そもそも、友達は多い方が良いとも思っていないので、本当に一緒にいたいと思えるような友人としかプライベートの時間では殆どお付き合いもしない(という生活が、独立してみると良くないような気もするが)。

ただ、物事を深く考え、他の人が思いつかないことを考え、何か新しいものを生み出すために「一人になること」「一人で考えること」が必要なのであれば、あえて、自分を孤独な状態にすることは必要である。そして、この自分を孤独にするために、一番障害となることが「人と違うことをするのが怖い」という発想なのではないかと思う。コロナ禍において良く言われた言葉に「同調圧力」という言葉があった。日米におけるマスクをすることに対する考え方の違いなどで話題になった言葉であるが、おそらく日本社会というのはこの同調圧力というのが強いのであろう。つまり、人と違うことをすると、変な目で見られたり、仲間外れにされたり、疎外感を感じたりする人が多いようである。学校などにおける「いじめ」の問題もおそらくこの辺の風土に起因しているのかもしれない。

もちろん、子供のころ酷いいじめにあったトラウマがあるなどの経験がある人がどのように対処すべきかなど素人の私がいうべきではないので、その様なケースは専門家の意見にしたがって欲しい。しかし、私は、人と違った成果を出したいのであれば、どこかで人と違うことをしなければいけないと考えている。また、結果的に、そのような選択をする方が、人より成果を出せる可能性も高くなる。つまり仲間外れにされるリスクはどこかで取らなければいけないのであろうと思うのだ。

「狂気とは即ち、同じことを繰り返し行い、違う結果を期待すること」(アルベルト・アインシュタイン)

冒頭のカリス氏の記事には、様々な心に染みる言葉が出てくるが(読書をしない私は、こういう気の利いた教養がないのが我ながら大変残念で、くやしい。。。)、その中で一番私が気に入ったのが、ここであげたアインシュタインの言葉である。正にその通りだと思う。人と同じことをやっていて、人と違う成果をあげることなど出来ないのだ。

「仲間」を作る

と思って、私の社会人生を振り返ってみると、実はどんな規模の会社であっても、自分と同じ仕事をしている人間が会社内にいたという経験をしたことが実は一度もない。それは、楽天においても、ゲーム会社においても、人材紹介会社においても全く変わらない。これがどういう事かというと、同じ土俵で同僚と売上目標やノルマ達成みたいな話で競争した経験が1度もないのである。それぞれの会社で誰もやっていないことを一人で始め、それを仕組みとして拡大させるという事ばかりやってきた。

その結果私自身の人生が成功であったのかどうかは私自身が評価するものでもないが、私個人としては、日本で最高水準のマーケティングを体験し続けられたと自負しているし、その成果に大きな不満はない。でも、それが出来たのも、おそらく社会人人生の最初から幸か不幸か、「孤独なポジション」ばかりやってきたことのおかげであることは間違いないと思う。私の場合は、それが25年間普通であったので、特に辛く、苦しく、不安になったことなども殆ど記憶にないのであるが。

ただ、ひとつ間違えてはいけないと思うのは、孤独であるということと、誰も手を差し伸べてくれないことは違うということだ。ここまで述べてきたように、これまで誰もやっていないアイディアを考え、その骨格を形作っていくという作業においては、私たちは一人になる時間を作り、孤独に深く思考することが必ず必要であると思う。しかし、その次のステップとして、実行、ビジネスでいえばこのBlogでこれまで重要性を強調してきたExecutionのフェースになってくれば、多くの場合、なかなか一人では行えなくなる。この時には誰かに協力を求めなければいけない。カリス氏はこの協力者を「仲間」と表現し、「友達」と分けて考えている。ちなみに、カリス氏がここでいう仲間というのは「共通目的を達成するために集まった人」と定義されている。このように考えると、私の社会人生においても仲間と言えるような人たちはどの会社での業務を思い返しても多くの顔が思い浮かぶ。では、どのようにすれば仲間は集まるのであろうか?今回の仲間の定義に従えば、まず大前提は「共通目的」があることである。どのような課題を解決するのか、社会的意義があるのか、さらに、ビジネスとして下世話に言えば、儲かりそうかなど、様々な要素が検討されたうえで目的は形作られる。その目的を魅力的にするためには、最終的には発案者の孤独な深い思考が不可欠である。その目的が魅力的であるほど素晴らしい仲間が集まる可能性は高まるのであろう。逆に、誰かの考えた素晴らしい目的に仲間として参加したい場合はどうであろうか?この場合は、今度は仲間になって、目的達成のために自分がどのような貢献が出来るのか重要になる。そうなると、重要なのは、スキルとか知識である。素晴らしい目的、今風にいうとパーパス、を持つ、大変人気のある企業に就職しようと思えば、それ相応のキャリア=スキルと知識を面接で問われることを考えれば理解できるであろう。では、そのスキルと知識を得るためには、これまで述べてきた様々な人材育成の方法や、スキルアップの方法を実践することが必要であるが、今回のテーマに照らし合わせて考えると、そのプロセスにおいては、必ず深く考えるという孤独な思考のプロセスが必要である。一人になって、他の人が考えないことを考える。このプロセスがなければ、アインシュタインがいうように、他の人と同じこと繰り返して、他の人よりも良い結果を得ようとする狂気を実現しようとしてしまうことになるわけだ。

孤独になる勇気を持つ

ちなみに、仲間と似ているようでいて対比される概念が「友達」という存在だ。人付き合いが悪いので、残念ながら友達が少ないと思っている私のような人間の負け惜しみ的な言葉と割り引いて読んでいただければと思うが、共通目的を共有する仲間との対比で考えると、友達とは共通の価値観で繋がるものである気がする。もしそれが正しいのであれば、友達というのは、一緒にいながら自己の存在意義を高めるために孤独な状況を作り、ほかの仲間と違うことをする、考えるという仲間同士の関係性とは異なるものとなる。価値観が共通するということは、どちらかといえば役割分担をして孤独に突き詰める時間とは逆で、同じことをする時間を共有する方向に働きやすいと考えられるからだ。気の合う友達と食事をする時間が楽しいのは、価値観の合う人と同じテーブルを囲み、話をするという共通の時間を過ごすことであるからだ。と考えれば、友達を増やすために、価値観の合わない人と無理に話題を合わせて時間を過ごすことにどのような意味があるのであろう?そもそも、そのような人は友達なのであろうか?おそらく、その人は今回の定義でいえば、友達ではなく「知り合い」程度の関係であろう。自分の成長とか、共通の目標とか、利害関係のない友達というのは、本当に重要であると思う。でも、そう考えれば、おそらく友達というのは多さではなく、価値観の共有の度合いの方が遥かに重要である気がする。私自身に、本当に相互にそう思ってくれている「友達」がいるのかどうかはちょっと自信がないが。。。

それこそ価値観は人それぞれなので、すべての人が孤独の中で人とは違う価値を生み出し、何かを成し遂げることを人生における重要事項と位置付けているわけではないであろう。寧ろ、気の合う友達や愛する家族と可能な限り長い時間をともに過ごすことに価値を置く人もいるであろう。もちろんそれは自分で決めれば良いことなので、正解など存在しない。ただ、このBlogは、いかにビジネスにおいて成功するのか、マーケティングのスキルを高めるのかに焦点を当てているので、その目的を最大化するのであれば、今回の孤独になって、一人で深く思考するというプロセスは必ず必要であるし、大変参考になる指摘であると思った次第である。

というわけで、カリス氏の記事でも最後に紹介され、私自身も著書を読んだり、多くのドキュメンタリーを見たりして、日本の究極の頭脳だと思っている羽生善治氏の言葉を引用して終わることにしたい。

「運命は勇者に微笑む」(羽生善治)