ROASは最強の運用KPIか?

ROASという運用KPIが登場した背景

この10年くらいのデジタルマーケでおそらく最も頻繁に活用されるKPIの一つにROASという指標がある。ROASとは、Return on Ad Spendの略で、広告投資に対して何パーセントのリターンが得られたかという指標である。つまりROASが100%を越えていれば、その広告投資は少なくても損はしていないと評価できる指標である。

また、同じような指標で、マーケティングの世界で久しく使われているLTVという指標もある。LTVはLife Time Valueの略で、一人の顧客を獲得してからその人が生涯にわたってそのブランド、商品、サービスにいくらお金を使ってくれるのかを計算するという指標である。このLTVの概念は、コトラーの教科書などでは、マーケティングにおいて新規顧客の獲得コストよりも既存顧客の維持コストの方が遥かに安いので、企業は既存顧客にもっと目を向け、既存顧客に維持に積極的に投資をすることで、顧客の平均LTVを改善し、それをうまくやるほどマーケティングの効率は改善し、企業の収益性は向上すると位置付けられている。

ROASという概念を私が始めて知ったのは、2012年頃にシリコンバレーでモバイルアプリゲームのマーケティングをしていたころに、ある広告メディアの担当者から、最近いくつかのゲーム会社でROASという指標で広告運用するケースが見られるようになったと教えてもらったのが切っ掛けであった。

当時のROASの対立概念は登録CPA(CPAはCost per Acquisition)であり、ROASの基本的なアイディアは、Free to Playのアプリゲームにおいては単純な獲得単価を安くするというよりは、顧客獲得後の課金まで念頭に置いて顧客獲得をしなければいけないという問題意識に基づいた概念であると理解した。

この話を聞いて、便利な考え方だなと思った一方で、概念としては特に目新しさは感じなかった。なぜなら、分子を顧客の価値を獲得した顧客の積算支払額で測定するという概念はLTVと基本的には変わらず、分母を獲得顧客数で割るか、広告投資額で割るかの違いでしかないからである。そして、私は楽天でマーケティングを始めて以来、LTVにおける分子の顧客の積算支払額という概念を忘れたことが一度もなかったからである。

では、なぜLTVという概念があるのに、わざわざROASという新しいアイディアが出てきたのであろうか?ROASというアイディアを最初に考えたのが誰か知らないので、考えた人に聞いてみたわけではないが、私が想像するに、LTVという指標が実際にマーケティングの現場で運用指標として使うには、非常に問題がある概念であるからだと思う。

LTVの計測なんて本当にできるのか?

なぜLTVは使いにくい概念なのだろうか?まず第1にLTVという指標の計測期間を本当にLife Timeとするのであれば、普通にビジネスをしていて、実数として計測するのは著しく困難であるということが挙げられる。例えば、銀行とか、保険会社のように、100年前とかにすでに産業として存在し、顧客のLife Timeベースでの実績を計算できるような企業であれば現実味があるのかもしれないが、少なくても私がデジタルマーケティングをしながら主戦場としてきたECやゲーム、医療福祉系の人材紹介のような単純に歴史の短い事業においては、Life Timeベースでの実績を測定すること自体事実上不可能である。

ただ、現実にはLTVと言いつつも、実際にはLife Timeではなく、一定期間に区切ってLTVを計算することで運用は可能である。

ここで少し昔話として、楽天市場のマーケティングをゼロから始めた時の話をしたいと思う。今となっては信じられないもしれないが、楽天グループは1997年の創業当時から、私が一人でマーケティング部を立ち上げた2002年までの約5年間マーケティングを実施していなかった。このため、私が三木谷さんにマーケティングやれと支持されたときに、どうすべきか非常に困ったというのが正直な気持であった。

当時のインターネットビジネスが置かれた環境というのは、基本的には新しい産業なので、競合に参考になるような事例はまず存在しない。そもそもインターネットショッピングモールというビジネスモデルでグローバルで楽天より成功しているサービスは存在していなかった。このような場合は、同種の事業で、オフラインの成功企業が行っている方法を参考にするというのが王道である。しかし、この方法は早々に諦めざるを得なかった。理由は2つである。一つ目は、そもそもオフラインの商業施設、小売業というのは、多くの場合特定のエリアに特化したマーケティングが中心であり、全国規模で個々の小売店やショッピングモールがマーケティング活動をするという事例が殆ど存在していなかった。

そして、二つ目がもっと深刻だったのだが、楽天市場の売上マージンが既存の小売業と比較して圧倒的に粗利が低いという状況であった。当時の楽天市場はそれまでの定額の出店料オンリーの課金形態であったビジネスモデルから、各店舗の売上金額に一定の料率を掛けた売上マージンを追加で徴収するという大きな課金体系の転換を図った時期で、私がこのタイミングでマーケティングを始めた理由もそこにあった。店舗から売上マージンを徴収するのであれば、楽天市場としてもその売上を原資により店舗の売上を伸ばすためのマーケティング活動をしなければいけないという状況にあったという訳である。

しかし、私を困らせたのはそのマージン率である。私の記憶ではおよそ2-3%程度であったと記憶している。小売業をしたことがある人であれば、私がこれを深刻だと考えた理由が分かっていただけるのではないだろうか?おそらく、オフラインの小売業で、粗利率が2-3%という業種は存在しないと思う。私の感覚では、悪くても3割程度はあるのではないだろうか?もしそうだとしたら、私がやらなければいけないマーケティングは、顧客の獲得効率を10倍以上高いものにしなければいけない。1回の顧客単価は忘れてしまったが、たぶん配送料などを考えると1,000円ということはなかったとしても、いきなり10,000円ということもなかったと思うので、仮に5,000円だとする。粗利が2%で100円、3%で150円である。それまでマーケティングの経験はなかったが、代理店から聞くバナー広告のクリック単価や、自社のメルマガの購入転換率から考えて、到底この粗利の範囲内で、新規顧客の獲得を行うのは不可能であるということがすぐに分かってしまった。つまり単純に新規顧客の獲得で投資回収するという考え方はワークしないことが早い段階で確定してしまったわけである。

ここで頭に思い浮かんだのが、コトラーの本で読んだLTVの概念である。一回の購入に対する粗利で投資回収出来ないのであれば、複数回購入してもらって粗利の絶対額を増やすしかないと思われた。ただ、当時の楽天の事業成長スピードを考えると2-3年前のデータをまともに分析しても、現在とサービス環境も異なるのであまり意味がないと判断し、とりあえず1年の期間に区切ってLTVを計算しようと考えた。具体的な数字は完全に忘れてしまったが、結論としては、何とか投資回収の目途が立ちそうな数字になった記憶がある。

この例のように、現実的にはLTVの概念は期間を区切って計測することは、ほぼすべての産業において必要になるし、私はそれでよいと思う。この期間をどのくらいで設定するかについては、事業特性や、実際の顧客のサービスの継続利用期間の実績に応じて事業ことに異なるので、算出ロジックの検証が必要となる。

LTVの予測へのチャレンジ

Life Timeという非現実的な計測期間の問題は、計測期間を任意に設定するということで、解決可能性が見えてきた。では、なぜ、デジタルマーケティングの世界で、LTVが運用指標として活用されず、ROASという概念が登場したのであろうか。

私は、LTVがデジタルマーケティングのPDCAを回すための指標として決定的に適していない最大の理由は、予測という要素を排除することが著しく困難であるという点にあると思われる。

LTVの事例を楽天市場の例を用いて説明したので、この点についても同様の事例で説明したい。楽天市場の新規顧客の1年間の粗利をもとにしたLTVは仮に2000円であったとしよう(実際の数字は本当に忘れたので、この数字は本当に適当です)。

新規顧客獲得担当の私は、AとB二つの広告媒体を使って顧客を獲得しているとする。媒体Aの登録CPAは3000円とする。媒体Bの登録CPAは1000円とする。この場合、私はA、Bそれぞれの媒体に何%ずつ広告予算を割り振れば良いだろうか?ちなみに、マーケティングのKPIはLTVの最大化である。

少し統計的な考えができる方なら、この意地悪な質問の答えが想像できると思うが、この問題はこの条件だけでは答えは分からないが正解である。

最初に提示したLTV2,000円という数字はあくまで平均値である。実際には、100万円買った人もいるかもしれないし、1円しか買わなかった人もいるかもしれない。この問題を少なくても論理的に応えるためには、AとB両媒体から獲得した顧客の媒体ごとの平均LTVの数字が分からないと、正しいメディアプランを作ることは出来ない。

仮に、Aの平均LTVが5,000円で、Bは500円だったとする。その場合は当然Bは逆ザヤになる可能性が高いため、全額をAに投資すべきという判断が合理的である。一方A、Bともに全体のLTVと同等に2000円が平均LTVだったとする。その場合は逆にAは逆ザヤになるので、Bに全額投資した方がよいとなる。

では、当時の私のように、広告投資をした実績データがない状態で、1年後の媒体ごとのLTVを知ることはできるであろうか?実績データは残念ながら1年後にしか分からない。つまりLTVと聞くと何か素晴らしいアイディアのように聞こえるが、当時の私には、運用を正しく行うための情報をそろえることはほぼ不可能な状況だったわけである。

そんなこんなで苦しみながら、1年経つと実績がたまってくる。すると、以前に実現不可能だった媒体ごとの平均LTVくらいは実績データで出せるようになってくる。しかしここで次なる疑問が湧いてくる。媒体Aも媒体Bも日々、一生懸命PDCAを回し、余り根拠もないが、LTVが高くなるような顧客にターゲティングしたり、そもそも予算額も増えて、1年前の倍くらいお金を使っている。それでは、1年前に獲得した各媒体の獲得ユーザーの質と、今獲得している顧客の質は同程度で、1年前のデータをもとに今の運用を決めることに本当に意味があるのであろうか?

この疑問にもし悩み始めたら、その方は非常に正しい思考ができる方だと言える。私もこの点にたぶん20年間苦しみ続けてきた。しかし、この疑問を一度持ち始めると、ある理想的な状況を妄想し始める。あらゆる顧客について、顧客獲得した瞬間にその人のLTVの金額を予想出来ないだろうか?それが出来れば、LTV最大化の完璧な顧客獲得のためのPDCAが回せるのではないだろうか?

ここで登場するのが、予測モデルという統計手法である。私はこの理想を実現するために、楽天でも、大手ゲーム会社でも、明らかに自分よりも頭のよさそうな人の力を借りて、チャレンジをした。自社のリソースだけでなく、世界で一番頭の良い人が集まっていそうなシリコンバーレーの巨大企業の本社のチームのリソースも使って、この理想実現のためにチャレンジもした。結論は全敗である。正直、トライトではチャレンジすらしていない。もちろん事業モデルや顧客特性など、様々な要素により実現可能な業種もあるのかもしれないし、代理店からそのような提案をもらったことも何度もある。しかし、2024年現在の技術では、少なくても私の経験した業種においては、この理想は実現しないものだと考えている。

もしかしたら、何年後かに、機械学習AIが今よりも飛躍的に向上することで実現する日が来るのかもしれない。しかし、たぶん今ではない。

ROASが前提としている条件とは?

そんな苦しみにもがき苦しんでいるときに登場したのが、ROASである。私から言わせれば、ROASという指標はLTVを現実的に運用できるように簡略化したアイディアである。ROASという指標が前提にしている概念は、1)予測の要素を排除し実績のみで計測する、2)顧客獲得から早期に、多く支払・課金をするユーザーはトータルの支払額も大きくなるという2点である。

予測の排除の概念は、おそらくこの指標を考えた人が私同様LTVの呪縛から逃れたかったのかもしれない。ROASの計測は、単純にある広告で獲得したユーザーが獲得後にいくら自社のサービスでお金を使ったのかを計測して足し合わせていくという非常にシンプルなものである。これであれば、多くの企業が利用している広告のトラッキングツールを正しく設定すれば、ほぼ誰でも正しい計測が可能である。

但し、ROASと売上・利益の最大化というゴールの連動性を出すためには、二つ目の条件をクリアする必要がある。ROASが前提としているユーザー行動は顧客の獲得から早く、多くのお金を使ってくれる人が、LTVも高くなるという前提に立っているからである。そんな前提条件など、どこにも定義はされていない。しかし、実際のROAS運用の仕方をシミュレーションすれば簡単に分かることである。

また、A,B2つの媒体で広告を運用していると仮定しよう。予算は200万円で、各媒体に100万円ずつアロケーションしたと仮定しよう。1か月の広告運用が完了した時点で、A経由で獲得した顧客の支払額が200万円でROAS200%、B経由の支払額は50万円でROASは50%だとする。では、翌月A、B各媒体の翌月の広告予算をあなただったらどのように変更するだろうか?この情報だけでは、いくらずつアロケーションするまでは決められないが、正しいROAS運用での判断は、Aに広告予算の配分を大きくするが正解である。

では、これが必ずLTV最大化、売上・利益最大化を実現する運用と言えるであろうか?例えば、翌月になって、A経由が追加で10万円支払が発生したのに対して、B経由の追加支払額が300万円であったとしたらどうだろう?前月末の判断は結果的に正しくなかったことになる。つまり、ROAS運用の前提は、早く、多く支払った人は、その後も少なくてもそうでない人よりはトータルでお金を多く支払ってくれるという前提条件になっているのであるから。

ROAS運用は非常に有用な運用手法であるため、採用しようとする場合には必ず、この2)の前提条件が自社で許容できるレベルで正しそうかを判断してもらいたい。ちなみに、私は人材紹介のビジネスでは結果的に採用は難しいと判断していた。転職というイベントにおいては、必ずしも登録から短期間で転職する人の給与が高いとは限らず、手数料が一定の場合、そうであるとすれば、ROASの2)の前提条件が当てはまらないことが、それなりの確率で発生し得るからである。実際に分析した結果も、そうなっていた。

デジタルマーケティングの世界は、日々新しいツールや、運用手法が生まれ、新しい運用KPIのアイディアが提案される。ROASはこの10年くらいの、最大のヒット作ではあるが、この指標を採用するために、自社のビジネスがそれに適したビジネスであるかの見極めは必要である。

一方LTVの予測モデルが完成すれば、私はおそらくあらゆるビジネスに活用できる究極のツールになる可能性があると考えている。いつの日にか実現してほしい気がするが、それが実現すると、もしかしたら自分の仕事もなくなってしまうのではという気がするので、あと10年くらいは実現しないでもらえるとうれしい気がするというのが、本音かもしれない。